ひぐらしは、いざなう 山陽+東海道
ふと最近聞いていなかった鳴き声が耳に入る。
『カナカナカナカナ』
こんなところにもいるのだろうか、と思った。都市開発が進み、緑が激減した都心ではもう聞かない鳴き声だ。山陽は喧噪の中、それが本物か、かすかに聞こえたその声に耳を澄ました。
『カナカナカナカナ』
果たして、それは間違いではなかった。喧噪にかき消されそうなほど小さな鳴き声だが、それは確かに夏の終わりの夕方に響く鳴き声であった。
都心では煩わしいほどの声で鳴く蝉が多い。あの鳴き声で体感温度が増すことはいつものことだ。最近は温暖化の影響でミンミンゼミより煩わしい声で鳴くアブラゼミが北上していると聞く。
そんな中、あの鳴き声を聞けたのは奇跡に近いのかもしれない。かつて居た篠山の地では馴染みのある鳴き声。夕方子供たちが家路に急いで駆けている中、あの鳴き声が昼間の熱気をはね飛ばすように涼しさを運んでくれた。
あの頃鉄の轍の側に立って、その鳴き声に囲まれることに恐怖したときもあった。周辺の世界から取り残されたような、自分だけが違う世界に独りでいるような錯覚に囚われたからだ。廃線決定だと告げられたときに聞いたあの鳴き声は、胸を抉るように己の中で響いた。山陽にとってあの鳴き声はいい思い出がある訳ではない。
『カナカナカナカナ……』
しかし、恐怖を感じたあの鳴き声と同じものとはいえ、今聞くのとではだいぶ違う。
独りじゃないからだ。
山陽は小さな鳴き声が聞こえる方向を探しながら思う。あの頃はあの地で、独りで聞いていたから恐怖を感じたのだ。
では、今はどうか。
独りではない。同僚がいて互いの架線を繋ぎ、互いの車両が行き来する。また、東へ赴けば、所属は違うが同じ高速鉄道である五人がいる。東京にある執務室はいつも賑やかだ。
東京駅十九番線ホーム、車両が停まるとちょうど十六両目にあたる位置から鳴き声のする方へ足を向ける。夕方五時台後半にこのホームに入る車両は少ない。よって、人も少ないのだ。だから、夢中であの鳴き声の主を探した。
東京駅周辺の喧噪の中聞こえたのだからすぐそばだろうと思った。もしかしたらホームの外にいるかもしれない。それでも可能な限り探したかった。心だけが逸り、それにつられるように足の動きも速くなる。
「何をしている」
突然かかった声に駆け出しそうになった足が止まる。振り返れば、同僚がアタッシュケースを手に立っていた。
「業務はどうした」
「あー、今日はこっちにいるしさ」
「では、何故ホームを走ろうとした」
同僚、東海道にはお見通しだったようだ。ホームを駆けてはいけない。いつもお客様に駆け込み乗車をやめてくださるようアナウンスしている身としては、ここで彼が声をかけてくれたのはよかったのかもしれない。
「だから貴様は……」
『カナカナカナ、……カナカナ……』
「ちょっと待って」
説教が始まりそうになった東海道の声に重なってあの声が聞こえる。それは先ほどより幾分か勢いがなくなっているようにも思えた。より耳を澄まさなければ聞こえなくなってしまうかもしれない。
「どうした」
「この鳴き声、聞こえないか?」
『カナカナ、カナカナカナカナ……』
到着した車両が入線する音にかき消される前にあの鳴き声が聞こえる。僅差でかき消されることはなかったが、彼には聞こえたのだろうか。
「ひぐらしか」
どうやら彼には聞こえたようだ。
「珍しいな。最近では聞かないぞ。ひぐらしは緑を好むと聞くが」
「迷い込んだんだろうな」
そうか、と続けた東海道はまた鳴き声を聞こうとしているのか瞼を下ろし、神経を研ぎ澄ましている。彼に倣い、自分も瞼を下ろし、視界からの情報をシャットダウンする。
『カナカナ……カナ……』
「どうやら寿命のようだな」
勢いがなくなったのはそれのせいなのか。
蝉の一生は皮肉なものだ。長い間地中で幼虫として過ごし、やっと羽化して大空に飛んだと思ったら一週間の命。だから、あんなにも声を大きくして鳴くのだろう。もう命がなくなるから精一杯生きようと。それを煩わしいと思うのは間違いなのかもしれない。
「あっちのようだな」
いつの間にか東海道が先導を取り、歩を進める。そんな彼の後ろについて、鳴き声を追う。
いつもの自分たちのようだと思った。彼が歩む後ろを守るように己が歩き、ときには隣に立ち同じものを見る。
ああ、と山陽は気付いた。
だから寂しくないのだ。彼のそばにいるから。
『カナ、カナカナ……カナ……』
もうこの鳴き声を聞いても寂しくはない。
美しく哀しい音だけれども、それを初めて綺麗だと思えた。
その後、名古屋寄りのホーム端で、美しく哀しい音を奏でていた生き物の亡骸を見つけた。それをそっと持ち上げた東海道の手に、山陽は己の手を重ねた。その掌は熱かった。
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