雷鳴、そして、残留痛覚
ゲリラ豪雨、という言葉はここ数年できた言葉だが、道子にとっては忌まわしい名でしかなかった。 東京駅の執務室の窓枠に切り取られた世界を、先が見えないという言葉がぴったりなほどの豪雨が占領していた。叩き付ける雨粒の音にその激しさを実感してしまう。
窓に切り取られた世界の片隅で真っ黒な空が青白く光り、少し時間をおいてそれを象徴する音が聞こえる。空が光り、すぐに音が聞こえれば近く、音が聞こえるのが遅けれと遠いという。さきほどから聞こえるそれはじょじょに近くなってきているように道子は思えた。近付かなくていい、と道子は願うように窓越しの真っ黒な空を見上げた。
「どうしたの?」
「なんでもないわ」
今声をかけてきたのは越子であった。さきほどからつばさ子、まち子にも同じような言葉をかけられたが、似た返事になるのは雷に気を取られているからだと己でもよく解っていた。だが、どうしても気になってしまう。遠くなれば気にならないというのに。道子は雨の音にため息を混ぜた。
「あらあら天下のセントラル東海さまがどうしたのかしら」
いつぞや聞いたことのある言葉に振り返らずとも誰か解った。
「雨量計の心配? 局地的とはいえ油断はできないものね。東海道が今頃苦労しているんじゃないの?」
このような厭味を道子に言う者は東の彼女しかいない。北子だ。
「あなたのところはどうなの? 新青森までの延伸やあのセンスのない新型車両のことで忙しいのではなくて?」
「センスがないのはどっちよ。白にブルーラインなんて古いのよ。もっと色を使ってみたらどう?」
「日本の高速鉄道といえば白の車体にブルーラインと決まっているでしょう。あなたたちは色を使いすぎよ」
「太文字ゴシックしか使えないあんたには言われたくないわね」
「シンプルが一番伝わりやすいのよ」
「シンプルだけがすべてじゃないわよ。華美になりすぎず、というのも大事なのよ」
「あなたたちは……」
北子への応酬に気を取られ振り返ったから油断していた、と冷静になってみれば解る。だが、このときに余裕がなかったのも事実。
道子の背後で今までと比べものにならないくらい真っ白な閃光が煌めき、直後地響きのような音が轟いた。
「わっ! えっちゃーん!」
「大丈夫よ」
越子と乃子が話している声がどこか遠くで聞こえるように、固まった道子の耳に届く。
「……今のは大きいわね。落ちていないといいんだけど」
さっきまで喧嘩寸前の言い合いになっていた目の前の北子も道子の背後にある窓から外を見ている。今はオフィスビルの窓や車のライト、街灯の明かりしか見えないのだろう。
「道子? どうしたのよ。さっきまでの勢いは…………もしかして……」
北子が道子の顔を見つめる中、またしても室内の蛍光灯をも凌駕する閃光が煌めき、間を置かずさきほどより大きな音が轟く。しかし、今度はそれだけではなかった。
ぷつと電気の切れる音と共に明かりが失われる。一瞬にして世界が真っ暗になった。北子の顔さえも判別できない。
すぐに非常電源に切り替わり、ドア付近の非常灯がつくがそれも微々たるものだ。
「ダメだわ、ここ一体停電している。ホームも危ないわね。ひとまず東北に連絡を……って携帯もダメ。さっきの雷で電波が弱くなっているみたい。他に連絡手段は……」
「無線は?」
「大本の電源がやられているから無理ね。ほら、通信ボタンの明かりがついていない。ひとまずつばさ子とまち子、懐中電灯を持って各自司令所とホームへ行って確認。室内の非常階段を使って。危ないから気を付けるのよ」
「のっこは?」
「わたしと一緒に残ろうね。越子は念のため在来の方を見てきて」
「解った」
「日頃から非常事態の訓練マニュアルを覚えておくように徹底してあるから大丈夫だとは思うけど、少なからず混乱してしまうお客様もいるから」
暗い中北子の指令が飛び、東の面々は動いていく。
北子の言う通り、この豪雨で一部区間でも影響を受けたとなると道子の片割れ、東海道は大変だろう。ならば連絡を取るなり支援をしなければならない。東日本とはシステムが違うとはいえ、それは大事なことだ。だが、身体が竦む。
「道子も連絡をしたらどう?」
「わ、解っているわ……」
携帯を取り出そうとしたら、もう一度さきほど同じように真っ暗な部屋を閃光が照らし、すぐに大きな音が轟く。
「……早く過ぎ去ってくれないかしら」
北子の声がより遠くに聞こえる。
やだ、こわい。早くどこかにいって。道子は祈るような気持ちでおそるおそる窓をの外を見た。その瞬間、またしても空を割るかのように稲光が駆けめぐり、身体の奥を揺さぶる地震に近い振動と音が轟いた。
道子はそれらに背を押される形で執務室を飛び出す。
雷の閃光を見てしまって目が眩み、かすかに点る非常灯はあまり役立たない。ただ記憶で廊下を走る。このように東海道の目の前で走ってしまったら小言を受けるに違いない、なんて混乱した頭は場違いなことを考えてしまう。
雷から逃れたい一心で無意識に辿り着いたエレベーターのボタンを無心で何度も押した。開かなくて何度も、何度も。
だが、開かない。当たり前だ。今は停電しているのだから。
無情にもかちゃかちゃという音だけがエレベーターホールに響く。
開かずの扉になってしまったエレベーターを諦め、道子は違う道へ走り出した。エレベーターホールを右へ行けば非常階段があったはずだ。会議室を過ぎて行き当たりを右に曲がればある。その曲がり角を曲がろうとした。
「きゃっ!」
だが、曲がりきらず、何かにぶつかってしまった。思っていたよりもスピードを出して走っていたせいか、ぶつかった反動で尻餅をついてしまう。詫びをしなければとぶつかった相手に謝ろうとした瞬間、今度は閃光の予告もなく大きな音が建物を伝わる。
短い悲鳴を上げて、自身の身体を抱える。もうこれしか術はないと思ったから。
「……やっぱり」
苦笑混じりの声が聞こえたと思ったら、耳にあたたかなものが触れた。それがすぐに誰だか道子には解った。暗い中誰かは姿形では判別できない。だが、仄かに香るコロンの香りが彼女の片割れのものだから、解ったのだ。
陽子、と彼女の名を口にすると耳を塞がれた自分の中で大きく響いた。頷く気配があったので、この直感は正しかったのだろう。
また地響きのように建物に振動が伝わる。だが、耳を塞がれた今、閉鎖された空間のように音が遠くてあの恐怖は感じない。
ほっと肩の力が抜けた。
山陽の片割れ、陽子はいつもこうしてくれていた。いつも雷が鳴る頃にひょっこりと現れて一緒にいてくれる。道子からこのことについて話したことはない。気付いたらいつも彼女がそばにいた。
それが嬉しい、と思うのはどうしてだろう。雷が鳴り陽子がそばにいるたびに思ったが、明確な答えは得られていない。
また、コロンの香りに胸の奥がちくりと痛む。その理由も解らなかった。
何度か身体に響く音を感じながら、感覚で数十分くらい経ったと思う頃、耳からぬくもりが離れた。
「もう大丈夫よ。ほら、電源も復活した」
陽子の言葉に合わせたように、ぱっと周囲が明るくなった。しばらく暗い中にいたせいで目が慣れなかったが、数回瞬きをしてやっと周囲が正常に見えるようになってくる。その中にいた彼女は綺麗な笑顔を浮かべていた。
「東海道は少し影響受けちゃったくらいだから大丈夫じゃないかしら」
執務室で連絡を待ちましょう、と続けた陽子のあたたかい手が道子の手を取る。
やっと日常を取り戻したような気がして、道子は微笑んだ。
「ありがとう、陽子」
嬉しさと胸に残る痛みの理由は解らないまま、日常に戻る。
「ねえ、あなたも解ったでしょ?」
陽子と道子が執務室に戻り、各々連絡が取れたとほっとしている中、陽子が北子を誘い紅茶の準備を始めた。いつもは陽子を中心に時々つばさ子やまち子が煎れるが、この日だけは違った。それは、陽子が北子に話したいことがあったからだ。
「まあね」
「だから、ね」
「あなたの言いたいことは解ったわよ」
「さすが北子」
「……苦手なものの一つや二つはあるからね」
誰だって、と長野まで開業したときに人数分揃えた紅茶のカップを揃えながら北子は続けた。
「あら、あなたにもあるのね。苦手なもの」
「う、うっさいわね!」
「かわいい」
「そんなこと言ってないで行くわよ!」
カップに陽子が紅茶を注ぎ終えたのを見計らって北子は執務室のソファへ戻ってしまった。ポットの後かたづけをしながら陽子は北子の背中を見る。
「……私にも苦手なもの……というよりおそれるものがあるわ」
私のこの感情、と陽子の小さく呟いた言葉を聞く者はいなかった。
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