その一言は雨にとかして
雨は綺麗だと思う。でも、憂鬱になってしまうから好きかと言われても肯定はできない。
本格的に梅雨の時期に突入して雨量計を特に気にしながら走る六月、昨夜からの関東から東海地方にかけての雨量が変わらない天気に、もしかしたらという予想を裏切らず東海道新幹線が運休した。昨夜の定例会議で東京にいた山陽と陽子も巻き込まれる形で東京を出ることができず、携帯電話で新大阪駅の職員と連絡を取り、新大阪から西では直通ののぞみ以外を運行することが決定した。
携帯を閉じた山陽を見上げ、陽子は苦笑した。
「あっちはなんとかなりそうね」
「直通以外は大丈夫だそうだ。東海の職員が大変そうだとは言ってたけど」
この雨じゃまだまだ復旧は難しそうだ、と山陽も苦笑するしかなかった。
現在の東京は東海地方よりは弱い雨脚だが、この執務室の窓を叩く雨粒が大きくなるのも時間の問題だろう。日本の気象は西からの流れるように変わる。台風も同じようなルートを辿る。
「早くやめばいいのにね」
そうはならないと解りながらも言わずにはいられなかった。肩に程よい重さで寄りかかる彼女が早く元気になれば、と思って。陽子は自分とは違って毛先に少しくせがある黒髪を撫でた。東海道新幹線が運休になれば当然道子も動けなくなる。運休になるたび落ち込む東海道につられるようにして道子も元気をなくし、今日もソファで落ち込んでいるところを陽子が見つけ肩を貸しているところだった。
彼女は落ち込んで沈んでいるときよりも、無邪気に笑っていたり軽く怒ったりしている方がいい。その方がかわいい。しかし、彼女が止まり同じ場所にいればこうして長く側にいられる、という事実もあったりして不謹慎ながらも雨が降ると嬉しいと陽子は思ってしまうこともある。
しばらく肩に乗って安定していた重みがずれ、支えを失った頭は重力に従い下へ落ちる。床に落ちることだけは避けなければととっさに手で肩を支えたおかげで、彼女の頭は陽子の膝に落ちた。道子、と名を呼んでみたが返事がなく、頬にかかる髪をどかせば彼女は瞼を閉じて眠りについていた。合わさったまつげの下は隈ができており、彼女が昨夜あまり寝ていなかったことを示している。彼女が少しでも休まるならばこのままでいい、と陽子はふっと微笑んだ。
ただそばにいるだけで幸せ。
「東海道は?」
ふと彼女の片割れが気になり山陽に問えば、本人は自覚していないのだろう、ほんの一瞬無表情になったが、すぐにいつもの彼に戻る。続けて、解るだろ、と明確な答えは口にしなかった。東海道は山形のところにいる、そう山陽は言葉にせず伝えた。東海道が落ち込むと山形の側にいることが多いというのは高速鉄道の誰もが知っていること。しかし、陽子はあえてそれを聞いた。
「ねえ山陽、悔しくないの?」
山陽は彼が好きだ。長年そばにいて山陽の気持ちに最初に気付いたのは陽子だった。しかし、山陽は彼とのほどよい距離が変わることを恐れて、大抵の者が踏み出すところで踏み出さない。それがとてももどかしい。そのもどかしさにいらつきが増し、山陽をいじめてしまいたくなるときがある。
問われた本人は、その内容が解っているのか解っていないのか判断しにくい表情で陽子を見下ろし、無言で返す。
「二人に昔何かあったというのはなんとなく解るわ。でも、私たちの方が長く一緒にいるのよ」
彼と彼女のひかりやのぞみを受け継いで西に走り、自分たちが手にして走ってきたそれらを手に彼らが東へ走る。それを何十年と繰り返してきた。何があろうとずっとそうしてきた。これは揺るがない、変わらない事実だ。
しかし、車両が年数を重ねるごとに老朽化し新型が導入されることと同じで、気持ちにも不変なものはない。
「早く伝えてしまえばいいのに」
一言で伝わるのだ、気持ちというものは。簡単なことだ。
「好きなんでしょ」
彼が。長年一歩後ろから見守ってきた彼が。
「ねえ山陽」
もうとっくに彼への気持ちに気付いているくせに。あとは伝えるだけ。簡単なことでしょ、と膝にあるやわらかな黒髪を撫でながら山陽を見上げた。彼は無表情に近かった表情を諦めにも似たものに変え、陽子、と自分の名を音にして続けた。
「……おれはあいつが戻ったらすぐにいつも通り走れるように待っているべきなんだ」
それがおれの役目だ、と山陽は目を逸らさずに告げる。
「それにまだ必要ねえんだよ、この気持ちは」
いつも明るい表情の彼にしては珍しい、諦め混じりの笑み。
陽子は改めて気付いてしまった。おそらく彼はしばらく気持ちを殻に閉じこめ表に出すことはないだろう、と。いずれその殻を壊すのは彼自身かはたまた彼の想い人か。もしくは他人か。
一度膝で眠る道子を見てから山陽を見上げれば、いつもの彼だった。
「お前も気をつけろよ」
そう忠告の言葉を陽子に投げかけ、山陽は執務室を出て行った。その足取りに迷いはなく、彼の決意のようだった。その彼の背中に謝罪を静かに言葉にせず伝えた。おそらく自分もしばらく彼女へ気持ちを伝えられないだろう。そんな自分が彼に八つ当たりじみた言葉を投げかける資格などない。
彼と同じように気をつけないといけない。一瞬の迷いで、油断で一歩先に進んでしまう。彼女を安寧の中に置きたいのなら、今伝えてはいけない。
もぞりと膝の上であたたかい彼女が動き、起き上がった。
「ん……あ、ごめんなさい……わたし……」
まだ眠そうな彼女に、大丈夫かと問うと彼女は返事をせず黒曜石を思わせる目で陽子を見つめた。そして、首を傾げた。
「なにかあった?」
彼女は彼女の片割れに似て、己のことになると鈍いのに、他人のことになると案外鋭かったりする。こういうときに鋭いこともあって、陽子は苦笑を浮かべるしかできなかった。
「なんにも。ただ、山陽をいじめすぎちゃったかなあって」
「あら、謝らなきゃだめよ」
子供を叱る母親のようにやわらかく微笑む。
彼女の隣にいる。隣にいたい。彼女の笑顔が見たい、色んな表情を見たい。
あふれ出す様々な思いに背中を押されたかのように、気付いたら彼女を抱きしめていた。何度も何度も、道子、と彼女の名を呼び、彼女の隣にいられる喜びを噛みしめる。
ただ一言だけは己の中に仕舞い込んで。
「もう少ししたら東海道も戻ってくるわ。雨が上がったら走りましょう」
背中に回った腕のあたたかさに陽子は道子を抱きしめる腕を少し強くした。伝えられない一言を腕で表現するかのように。
Closed...