ひぐらしは、いざなう 西武池袋と西武有楽町、西武秩父



「西武池袋、このなき声はなんですか?」
 飯能駅で西武秩父が秩父の地から戻るのを待ちながらホームの見回りをしていたところ、西武有楽町がぽつりと疑問を口にする。西武有楽町の言葉が指すものは当然西武池袋にも聞こえていた。
「ひぐらしだ」
『カナカナカナ……カナカナカナ』
 ほんの少しの利用客しかいない中、それは大きく響く。
「ひぐらし……ですか? それは鳥ですか?」
「蝉だ」
「せみ?」
「ミンミンゼミは解るだろう?」
「はい! それとおなじなのですか?」
『カナカナカナカナ』
 池袋が頷き返すと同時にまた鳴く。
 練馬から小竹向原まで地下を走る西武有楽町には馴染みのないものだということは池袋も解っていた。ましてや、首都所沢でも最近あまり聞かない。球場近くの森にはいるだろうが、開発が進む沿線では減ってきているのであろう。
「こんなせみがいるんですね」
 一匹が鳴き出したのが引き金になったのか、少しずつ音が重なり和音を奏でる。
 池袋は足を止め、瞼を下ろす。
 そうして瞼の裏に蘇るのは、懐かしい思い出ばかり。己が堤会長と共に歩んできた道、合併して仲間が一気に増えたあの頃、会長が亡くなられたと聞いたときホームの端で泣き胸の空虚感を味わったあの日、会長を知らない二人の誕生。すべて己が見てきたものばかりだ。
 堤会長の後ろに立ち、歩いていたときにこの鳴き声を聞いたこともあった。当時は飯能も今よりもっと緑が多く、夏の夕方には、ひぐらしの鳴き声が聞こえ、秋に近づけば鈴虫の鳴き声も混ざる。
 随分この地も変わった、池袋は瞼を上げながら思った。
 ふと隣を見下ろすと、西武有楽町がどこか不安げな表情で見上げていた。この子は周囲が思うよりも聡い。
「西武池袋、どこか痛いのですか?」
「いや……西武有楽町、ひぐらしはどうだ?」
「きれいです」
「もっと聞きたいか?」
「はい!」
「もうすぐ西武秩父が戻る。そのまま乗って武蔵横手へ行こうか」
 西武秩父へ向かう車両が停まる位置に立ち、秩父の山を下りてくる車両を待つ。
 それはほんの数分ほどで到着した。おそらく東飯能駅で八高線から乗り換えたであろうお客様がすぐに発車する急行池袋行きに乗り換えるところを見守る。お客様の邪魔にならないよう乗務員室の扉の近くで。
「あれ、休憩室で待ってるかと思ってたんだけど」
 お客様が全員降りたところを見計らい、西武秩父も乗務員室から降りてくる。出ようとした彼の腕を掴み、比較的お客様が少ない最後尾車両に乗り込んだ。本人の困惑など関係ない、と池袋は乗務員室の扉の近くに立つ。
「今からどっか行くのか? 夕飯遅くなるぞ」
「武蔵横手だ。そう遅くはならないだろう」
「ひぐらしをきくのです!」
「ひぐらし? それだったら飯能でも聞けるんじゃ……」
「緑が多い方がよく聞こえる」
「まあ、確かに多いけどな。武蔵横手もだけど、吾野とか芦ヶ久保とかもな」
「お前も付き合え」 「はいはい」
 最後尾車両に乗る乗務員と今日の運行状態等の話しをしているうちに発車の時刻になり、ホームの発車メロディが鳴ると扉が閉まり、緩やかに動き出した。
 西武有楽町は窓の外をずっと見ていた。夕焼けに染まる山が珍しいのだろう。自分の架線を走っているときには決してみられない風景だ。
 緑がじょじょに深くなりしばらくしたところで、武蔵横手に到着した。
 お客様に続き、自分たちも降りる。夕暮れにはこの駅で飼われている山羊のそらとみどりも小屋の中で休んでいるようだ。乗ってきた車両が秩父に向けて出発すると、辺りは一気に静かになる。ひぐらしの鳴き声だけを残して。
『カナカナ……カナカナカナカナカナ』
 そんな中、他に誰もいないようなそんな感覚がして、西武有楽町は両隣に立つ大人二人を交互に見上げた。二人とも目線を一度合わせたが、すぐにホームの正面に広がる森へ向く。
「どうだ、すごいだろう。昔は所沢もここに近かったんだぞ」
『カナカナカナカナ』
 池袋の声をかき消すように飯能で聞いたものよりも大きく鳴き声が響く。
 こわい、と思った。
 そして、胸がしめつけられるようだ、と。
『カナカナ……カナカナカナ』
 だれもいないのだろうか。
 このきもちはちかで、さきのみえない地上をまちのぞみながら、十年いじょうまったときとにている。
 めがあつい。
 西武有楽町は思わずそばにいた池袋のコートを握りしめた。その手を払うことなく、池袋はそっと手を重ねてくれた。その手にさらに大きな手が重なる。西武秩父だ。
 手のあたたかさにひとりではないときづいた。
「……わたしは、」
 西武有楽町は夕日に焼ける山を見ながら、頬に伝うものを止めることができなかった。
『カナカナカナ』
 だが、手のあたたかさに、この鳴き声を聞いても、こわい、と思わなかった。


Closed...

 10.08.29 G.C.Cにて


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