甘味過剰、遠慮少々



「……寒い……」
 地下は地熱があるから寒さは幾分和らぐが、地上の寒さは厳しくなる季節だ。コートと念のためのマフラーを準備しておいてよかったと有楽町はコートの上から両腕を撫でた。
 始発から数本を見送ったあと、自販機で購入したホットコーヒーを手に人がまばらな池袋駅構内を歩いているといつの間にか西武池袋線近くへ辿り着いていた。混雑率が高い池袋線も早朝は人があまりいない。止めていた足を再び動かし、スーツの上にコートを着込んだ数人のサラリーマンとすれ違い、池袋線のホームへ入った。
 あまり踏み込むことのないそのホームへ入ったのはなんとなくだった。
 早朝の外の空気はきんと冷えていた。コートとマフラーを着用していても背筋が凍るほどだと思った。一層冷えた空気に耐えながら西武池袋線の駅員からの挨拶に返事を返し、ホームの先へ進む。
 一度足を止めれば、黄色い電車が並ぶ間に見慣れた濃紺と黄色に近い金を見つけた。彼は到着した電車から降りる乗客を見つめていた。再度足を動かし、彼がいるホームの端へ向かう。
 これもまたなんとなくだった。
 乗客の流れに逆らい彼の側へ着くと、自分を視界に捉えた髪と同じ黄色に近い金の右目が不機嫌に歪む。
「……営団は暇なようだな」
「いやそうじゃないんだけど……なんとなく」
「それを暇というのだ」
 これだから営団は、と西武池袋の口癖のような言葉は白い息と共に有楽町へ投げられる。苦笑を返す有楽町に溜息を漏らし、池袋は腕を組む。
「数時間後にはラッシュだ。気を抜くな」
「うん、ラッシュには小竹向原に行く。西武有楽町はもう行った?」
「始発の直通で向かった、っ!」
 ホームの端にいる二人を冷たい空気を纏った強い風が襲った。
「さむっ……」
 あまりの寒さに有楽町はより白さを増した息を吐きながらコートの袷を片手でいじった。やっぱりコートを用意して正解だった。
 風がおさまって傍らの池袋を見ると、剥き出しの両手で腕をさすっていた。
「コートの下、セーターとか着ていないのか?」
「き、貴様に心配されるほどのことではない……」
 強気に心配は無用と返してくるが、震える声と身体は隠せていない。言葉と行動がちぐはぐだ。だが、どうしてそう意地を張って我慢するのかもう問うことはしない。彼はそういう人なのだ。相互乗り入れを始めて、いつしか理解していた。
「どうした」
 なんとく池袋の冷たい手を取った。今日はなんとなくで行動することが多いが、そういう日があってもいいだろう。
「何もないのなら離せ」
 突然のことに自分でも何をしているか思考が追いつかないまま、まだ暖かさを保つ缶コーヒーをその手に握らせた。
「……なんだ、これは」
「ホットコーヒー」
「そういうことを聞いているのではない。何故このようなことをするのか聞いているのだ」
 そうか池袋があまりにも寒そうだから。自分のお人好しさを自覚しないまま、だが、自分の行動を理解した有楽町は、細められる右目を無視して自分の首を包むマフラーを取り、寒そうな襟元にかける。冷たい空気が遮るものを無くした首を撫でるが気にしないことにする。すぐに地下へ戻る自分にはたぶん必要ない、と思う。
「西武は施しなど受けん!」
「これは施しじゃないから、な」
「では何なのだ!」
 わめき立てる池袋を無視して寒そうな襟元を包む。しかし、濃紺の制服の襟があり包むのが難しい。しかも身を捩って首に巻かれるものを外そうとする人物に有楽町は苦戦した。自分達が些細な攻防を繰り広げる姿は周りから見たら滑稽だったかもしれないが、なんとしても巻こうとむきになった有楽町にとってそれはあまり重要ではなかった。
 やっとのことで巻き終え、手を離して不機嫌を目一杯表現しているだろう顔を見上げれば、それは想像通りだった。だが、暖を取ろうと両手でホットコーヒーの缶を握っている。無意識なのだろう。思わず笑みが零れてしまう。
「……お前に余計な世話を焼かれる覚えはないのだが、営団」
「オレの勝手だから気にしないで」
 最後に少々乱れているマフラーの端を整える。
「じゃ、新木場まで一度見回ってから小竹向原に行くな」
 一種の達成感を抱き、有楽町は池袋に背を向けた。まだ文句を言おう思っているのか、有楽町、と呼ぶ声がするがあえて無視をした。ホットコーヒーもマフラーも突き返されるだろうと予想できたから。
「お前は地上を走ってるんだからちゃんと暖かくしろよ」
 背を向けたままひらひらと手を振って有楽町はホームから離れた。その後ろ姿を池袋が見ていたかは定かではない。


 朝のラッシュを無事終え、池袋が練馬駅の休憩室に入るとすぐ茶色の頭が目に入った。その子供は、お疲れさまです、と椅子から降り頭を下げた。
「うむ。今朝は遅延もなく順調だったが、気を抜かないように」
「はい!」
 しっかりと頷く子供の頭を撫でる。柔らかな髪は指通りが良い。
 手を離し、椅子に戻る西武有楽町の向かいに座ろうとした時に、コートのポケットに入れていたものに気付いた。手の暖を取ることばかり優先して、かつ、本社から連絡が入りすぐに移動してしまったのもあり忘れていた、と既に冷え切ったそれを取り出す。
 池袋の手の中のそれを見た西武有楽町は、あれ? と首を傾げた。
「西武池袋もそのコーヒーをのむのですか?」
 受け取った時のことを事実そのままに伝えていいのか悩んでいると、西武有楽町の言葉は更に続いた。
「そのコーヒーは有楽町がよくのんでいます。すきといってました」
 池袋はその言葉を聞きながら手にしているそれを見た。有楽町は自分の好きなものをわざわざ渡したのか。あれはいつも他人を優先する。それが有楽町という人だった。
 すぐに缶コーヒーから視線を移動させた西武有楽町の、あ、という声に今度は池袋が首を傾げた。
「そのマフラーも……有楽町のです」
 暖かさに忘れそうになるが、外の寒さから自分を守っていたこれも有楽町のものだった。
「……勝手にあいつが渡していったのだ」
「有楽町が…?」
 西武有楽町は心底不思議だという顔をして池袋を見上げた。その顔へお前が気にすることはないと告げて、マフラーを外し本来は暖かかったそれのプルタブを開け、口を付けた。
「……甘すぎる」
 砂糖とミルクがたっぷり入っているそれはコーヒーの苦みを消して喉を通った。
 やはりコーヒーよりお茶だ、と池袋は甘いコーヒーを一気に飲んだ。



 有楽町は池袋駅に急いでいた。用件があると思しきメールが届いたのだ。
 池袋駅で待っている。
 簡潔すぎるそのメールの送信者は池袋だった。池袋線に遅延や見合わせがあった等の報告は入っていないから重大なことではないだろう。しかし、本文から読み取れる情報が少なすぎるせいで、重大なことでないにしろそこそこ大事なことかもしれないと仮定し、永田町駅から急いで引き返してきた。
 終電間際の車内は早朝の池袋駅と同じで人がまばらで、有楽町は先頭車両の乗務員室のドアに寄り掛かり、車内の行き先表示を眺めていた。今さっき護国寺駅を出発し、次は東池袋駅だ。池袋駅まではあと二駅。その数分がもどかしい。
 やっと池袋駅に到着し、乗務員へ挨拶をして車内から飛び降りる勢いでホームに足を着け、階段へ駆け出そうと一歩を踏み込んだ。
「有楽町」
 突然呼ばれた自分の名前に驚いて勢いを付けた足を縺れさせそうになった。
 声のした方を振り返れば、待たせていた人物はすぐ側にいた。予想外なことだったので有楽町は拍子抜けした。
「あれ……なんでこっちに? てっきり池袋線のホームかと思ってたよ」
「西武有楽町のところを経由してきた。それだけだ」
 一度目線を送って池袋は足を進める。有楽町もそれに倣った。
 和光市方面の電車がホームを出て、誰もいないホームには二人分の足音がよく響く。無言でいることに苦痛はないが、簡潔すぎる用件の本当の理由を知りたい。
「池袋駅で待ってるってどういうこと? 何かあった?」
 池袋からの返答は無かった。背筋を伸ばし、規則正しく歩く綺麗な所作はいつもと変わらない。特に重大なことは無さそうだ、と少しほっとした。だが、まだ疑問のしこりは残る。
 ホームの中ほどまで進んで池袋の足が止まった。
「なんかある?」
 また返事がない。言葉を口にするのに代わり、制服のポケットから取り出したのは財布だった。今池袋の目の前にあるのは自販機。合点がいった。
「喉渇いたのか、なんだったらメトロの休憩室でお茶煎れるけど」
「そういうことではない」
 小銭を入れボタンを押して落ちてきたのは、ホットコーヒー。今朝池袋にあげた、あれと一緒のものだ。
 いつも休憩室で緑茶ばかり飲む池袋もこれが気に入ったのだろうか、と思っていると、それと紙袋がずいと差し出された。
「これって……」
「受け取らんか」
 紙袋とホットコーヒーを見るばかりで中々受け取らない有楽町に焦れた池袋に手を取られ、押し付けられた。
 解らない。常日頃から池袋の行動はよく解らないことが多いが、今はもっと解らない。主語がないからだと思う。
 疑問符ばかり浮かんだまま受け取った紙袋を覗くと、今朝目の前の彼の首に巻いたマフラーが入っていた。ああ、と有楽町は苦笑した。
「いつでもいいのに」
「冬の寒さはこれからだ。貴様だって寒かろう。借りたままのわけにはいかん」
「けど、今日はいつにも増して寒かったし。夜はもっと寒いだろ?」
「営団に心配されることは何もない!」
 ここが地下というのもあって今朝のように寒さに震えてないのは確かだが、所沢に帰る時にはまた寒い地上を走るのだ。
 紙袋から返されたマフラーを取り出しまた池袋に貸そうと思ったが、今度は首を包む前に先手を打たれ奪われてしまった。そして、首が絞まる勢いで自分に巻かれた。
「く、くるしっ! 痛い、池袋っ…痛い!」
「お前は…!」
 マフラーから手を離すと池袋は眉間の皺を深くし、腕を組んでそっぽを向いてしまった。
 自分の行動は何か彼の気に障ることだったのだろうか。ただ、今夜は更に冷えそうだからまだ彼の手にマフラーがあれば助けになるかもしれないと思っただけだったのだが。
「……我慢せず我が儘の一つくらい言ってもいいと思うが」
「別に我慢してないよ。遠慮してるわけでもないし」
「今朝は致し方ないとして、夜まで寒いのを我慢して私に貸す必要はないだろう」
 折角買ったコーヒーだってそうだ、とそう続ける池袋の表情は見えない。それはホーム外へ視線を逸らしたせいで、顔の左半分しか見えず、しかも長い前髪に覆われているから完全に表情が読めない。
「遠慮されてばかりだと、お前が本当にしたいこと、気持ちが解らなくなってくる」
 腕を組んでいる手が制服の袖をぎゅっと握る。
「遠慮するな。……我が儘を言えないほど私は頼りないか」
「そんなことない!」
 そんなつもりじゃなかった。肩に掴みかかり池袋の目を見ようとしたが、やっぱり見えなかった。
 綿密に組まれたダイヤの通りに列車を動かすことは大変なことだ。自分の路線は運転形態に違いはあまりないから運行に大きな苦労はないが、池袋は違う。急行、快速、準急、快速急行など様々な形態で時間通りに動かすのは大変だと思う。時々混雑で遅延していることもあり、休憩室で溜息を漏らしていることもしばしばある。少しでもその疲れを取り除ければと思っていた。
 そう言おうと思ったが、口を開いても言葉が音にならない。
 しかし、池袋はこんな言葉を聞きたくないだろう。言い訳にしか聞こえない可能性もある。だったら。
「池袋」
 名を呼んでも振り向いてくれない。
「えっと……茶、飲んでかない?」
 やっと視線を有楽町へ戻した池袋に更に続ける。
「あ、いや……ここに来るまで寒かっただろうなって思って」
 また皺の寄った眉間に、今度は、違う、とはっきり否定した。
「まあそれもあるんだけど、一番は、今少しでもお前と一緒にいたいって思って」
 真っ直ぐに自分を見る目から逸らさずに有楽町は答えた。今度ははっきりと気持ちを込めて。
「……まだ我が儘じゃないかな」
「いや」
 眉間の皺がほぐれ、鋭い右目がふっと和らぐ。
 有楽町はその和らいだ瞬間の目が好きだった。西武有楽町といると和らいでいることが多いが、他社の者にも自分にも厳しい池袋の目線は鋭い。だから、このように和らぐ瞬間は気を許していると解って嬉しかった。
 そして、これは了承の意でもあった。
「紅茶でいいか? 銀座が新しく買ってきたのがあってさ」
 顔の左半分を覆い隠す髪を掻き上げ、蛍光灯の元に晒された左目は細められ、右目と同じで和らいでいる。誰もいないからとその瞼へそっと口付けをした。
 ゆっくりと静かに手を下ろし、少し乱れた前髪を手櫛で整えた。行こうかと歩き始めて後を追ってくる池袋に、有楽町は込み上げる幸せとホットコーヒーの甘さを一緒に噛みしめた。
「……そのコーヒーは甘すぎるな」
 そう言った池袋の声は穏やかだった。

Closed...

 09.12.20


← main